| 昨年起きた長崎の女子小学生による同級生殺害事件の衝撃は今なお消えるこなく波紋を広げ続けている。そして、この事件に類似する悲劇は後を絶たない。こうした悲劇が起きるたびに学校長や教育委員会からは判で押したようにいのちの大切さを教える必要性が説かれ、子供達にいのちを大切にしなさいと言う。 しかし、言葉で言うだけでは何も子供達に伝わらないのではないか。いのちの大切さを身をもって感じられる経験がなければ実感として分からないのは当然である。十分に理解できないからこそこのような悲劇が後をたたないのだと思う。 この事件の背景としてネット社会の子供達に与える悪影響が取り沙汰されているが、それが一つの要因ではあっても一番の問題は大人の社会自体がいのちの大切さを実感できない仕組みになってしまっていることではないだろうか。 たとえば健常児と障害児を分けて教育する分離教育の問題を例にとってみると、障害があってもなくてもひとりひとりの子供のいのちの重さは同じであるのに、障害の有無や程度で区別することはいのちを選別することである。いのちの格付けである。 最近でこそ障害児が普通学校に通う例が増えつつあるが、全体的には今もなお障害児は養護学校か特殊学級という分離教育の発想が国や教育界、社会の側に根強くあることに変わりはない。 こうしたいのちの選別は分離教育に限らず、成績の良さとかよりいい学校といったランク付けによって日常的に子供達に刷り込まれ、こうした中で自分のいのちに意味がなく感じたり、他人のことを馬鹿にしたり、憎んだりすることが積み重ねられていく。それが他人のいのちや個性を尊重できないとかいのちの大切さが実感できないことにつながっているのではないか。 今、子供達に必要なことは単にいのちの大切さを言葉で理解させることではなく、それを実感できる機会を与えることである。どうすれば実感できるか。答えはごく簡単である。障害の有無で選別し、分離するような教育のあり方を根本的に見直し、地域の学校で健常児と障害児の区別なく学べるようにすれば子供の頃から自然に助け合って生きることを実体験することができ、それによって他人への思いやりや気づかうことを覚えられるのではないか。そうして他人の存在の重さや大切さを実感できる心が育っていくのである。何よりもいのちの価値は全て同じであるという基本的な意識が子供の心に根づかなければ、いのちの大切さをいくら説いても何も伝わらないと思う。このような教育の在り方に変えていかなければ、今後も子供達による悲劇は増え続けるばかりだろう。 言葉だけでいのちの大切さを説いても何の意味もない。いのちの大切さを身をもって実感できる環境を作り、いのちの大切さを信じられるような社会に変えていくことが大人としての責任ではないのか。 また、最初に書いたように現代社会において子供のみならず大人の社会自体がいのちの大切さを実感できない仕組みになってしまっていることに大きな問題がある。 昨今の先端医療の動きを見ても受精卵診断等出生前診断の技術が歯止めなく進歩し、自己決定権の名のもとに健康な種のみ生かして重い難病等の種を排除するといういのちの選別がなし崩し的に行われるようになりかねない状況になりつつある。このことに強い危惧を感じずにはいられない。他にも脳死や安楽死等の問題もあり、いのちとは何なのか、いのちの大切とはどういうことなのかが社会や生命倫理のコンセンサスとして明確に示せなくなっている中で子供達にいのちの大切さをどうやって教えられるのか、どう信じさせることができるというのだろうか。 毎日のように殺人のニュースが流れ、ひとりひとりのいのちの価値は全て同じというごく当たり前のことが実感できないのは子供達にとって非常に不幸である。大人の方こそ子供に言う前にいのちの大切さを自ら知るべきだろう。大人が変われば先入観のない子供がいのちの大切さを知るのはわけもないことだと思う。子供がいのちの大切さを理解できないのは大人の責任であることを学校長や教育委員会の方々はよく自覚された上で子供達にいのちの大切さを説いていただきたいものである。 |