| この本のことはテレビニュースで報道された芥川賞授賞式を見て知った。壇上でわざと転げるという著者の奇妙なパフォーマンスが映し出され、その姿は軽薄そのものの印象だった。今思うとあれは著者流のテレ隠しという気がするが、その時は介護入門というややいかめしい題名とのギャップが大きく、介護入門というタイトルが気になりはしたものの内容自体には何の関心もなかった。 その後、この本のことはすっかり頭から消えかけていたが、偶然テレビで著者のインタビューを見た。最初は以前画面で見た通りの軽薄そうな受け答えに感じたものの話を聞くうちにこの小説が著者自身の祖母の介護体験を下地に書かれていることや、その介護体験に対する著者の考え方に強い関心を覚えた。こうしてこの本を読み始めることになった。 主人公がマリファナ中毒者という設定には違和感を覚えたが、とりあえず読み進めることにした。主人公は毎晩祖母の介護をしている。アメリカ滞在中に祖母が倒れたという電話で呼び戻され、それ以降母親と共に要介護度5でほとんど寝たきりの祖母の介護を続けている。祖母の家に帰りたいという願いを汲んで入院から在宅介護に移行していた。主人公の祖母の介護に取り組む姿勢はとても真摯で常に祖母にとって最善かつ安楽な状態を保つことに留意している。そうしたことを切れ目なく続く文体で主人公が延々と饒舌に語り続ける。その中に時折YO、とかニガーというラップ音楽を連想させる言葉が顔を出すが、それが何らかの効果を演出しているようには思えず、これもまた著者特有のテレ隠しのための装飾にしか感じられなかった。 それ以外は特に奇をてらったところもなく、ごくオーソドックスな生真面目にさえ感じる文章だ。 主人公は何度か「この祖母だから俺は介護する」と自らに確認するように呟く。とても印象的な言葉だ。現代社会において親子や家族の関係は急速に希薄になりつつあり、それが子や親を殺すような事件になって顕在化しているが、それは愛情を注いだり、注がれたりといった記憶の積み重ねのなさに起因する側面があるのではないか。主人公には祖母に可愛がられた記憶、祖母と共に過ごした記憶が心に深く刻み込まれているからこそ、彼をしてそう言わせるのであろう。そうした思いの深さが祖母の子であり、母の姉妹でもある叔母への不信感を増幅させる。叔母は祖母が寝たきりになって以来、祖母の介護には一切手を貸さない。時折祖母の部屋を訪れては祖母に同情の言葉をかけ、涙をこぼす祖母を慰めるばかりだ。そして、そのことを自慢げに吹聴し、祖母のいないところで言う。また、主人公はマスコミの報道を痛烈に批判する。介護地獄という言葉でセンセーショナルに煽りたて話題性のみを追求するマスコミの姿勢。そこには現実に家族の介護に携わる人々の真実の姿を省みる視点は何一つなく、そうした欺瞞性を主人公は辛辣な言葉であぶり出している。 全体を通じてマリファナ中毒者である主人公の祖母の介護に対する姿勢や周囲の人に向けられる視点はごくまっとうであり、マリファナ中毒者という設定には何ら必然性が感じられない。これも介護という重いテーマを真面目に捉えていることに対する著者流のテレ隠しのための装置なのではないか。私にはそう思えてならない。著者の実体験的要素の強い作品ではあるが、これはあくまでも小説であり、マリファナ中毒者という設定を反社会的だとする批判を著者に向けるのはあたらないだろう。ただ、主人公の視点は常に真摯で祖母に対する思いが深すぎるがゆえに、時にやや一面的かつ短絡的に思える部分もあり、そこにマイナス点があるように感じる。たとえば叔母に対する批判にしても主人公の立場から見ればそう言えるだろうが、介護する主人公とその母は善、介護に関わらない叔母は悪という図式はあまりに単純過ぎはしないか。祖母の介護はともかく主人公自身が今後どう生きたいのかというそこのところが何も見えてこないことにも不満が残る。主人公は祖母の介護に日夜励むことで自身の現実の人生から目を逸らし、逃避しているようにも思えるのである。 しかし、そうした物足りなさを差し引いても主人公の祖母の介護に対する熱意やひたむきさには強く胸を打つものがあり、マスコミや家族を取り巻く親類縁者、介護従事者に向ける鋭い批判にも的を射たところがある。そこには家族の介護に携わる一介護者としての包み隠すところのない率直な視点があり、文体の好き嫌いやマリファナ中毒者という設定に賛否両論はあるだろうが、一読の価値は十分にある小説だと思う。 |