退院までの道のり
| 私が自立生活に関心をもつようになったのは、今から10年程前のことです。当時文通していた人から、札幌に住む呼吸器使用者の女性を紹介されました。それで何気なくこちらから手紙を出したところ返事が届き、彼女が呼吸器を24時間使用しながら、アパートを借りて、自立生活をしていることを知りました。これを知った時は、本当にそんなことができるのか、それができる彼女は特別な人ではないかと半信半疑でした。しかし、何度か文通を重ねるうちに、自分の中で自立生活への関心が急速に高まっていき、1995年に大阪で開かれた『呼吸器使用者の集まり』で、初めてこの札幌の女性「佐藤きみよさん」にお会いしました。このとき、佐藤さんからぜひ札幌に来るようにと誘われ、彼女の自立生活をどうしてもこの目で見たいという思いから、その場で何の迷いもなく札幌行きを決意したのです。 1996年7月に札幌に行き、佐藤さんのアパートを訪問したり、行動を共にしたりする中で、彼女のいう自立生活というものに対する思いが、直接的に強く伝わってきました。自分らしく生きられるから、毎日がとても楽しいという彼女の言葉が、心に深く刻み込まれました。それまで私は人工呼吸器をつけている以上、病院しか生きられる場所はないと思っていましたが、もしかしたら自分にもこういう生き方ができるかもしれないという思いに変わり始めていました。人工呼吸器をつけていても、自立して地域で暮らせる環境が整えられれば、病院に入院し続ける必要性は何もないのではないか。それならば、自分の本当に望む生き方をしたい。自分の暮らしたい場所で生きたいと、強く思うようになったのです。この札幌行きによる気持ちの変化が、自立生活実現に向けての活動の原点になっています。 札幌行き後、岐阜市内で活動する『障害者自立支援センター・つっかいぼう』に、病院を退院して自立生活をしたいという意向を伝え、協力をお願いしました。 活動を開始してから、数年はほとんど何も進展もなく過ぎ、気持ちばかりが先走る日々が続きました。そして、1999年8月、「これ以上こんな中途半端な状況のままで、周囲の人たちを振り回し続けるわけにはいかない。自立生活をここで諦めるか、現状を打開して前に進むか、どちらかにはっきり決めよう」とおもったのです。ここに至って、ようやくモヤモヤした迷いの気持ちがふっきれ、当時の看護師長と主治医に「退院して在宅に移行したい」という意志を伝えました。しかし、その直後に心臓の調子が悪くなり、ペースメーカーを埋め込むという出来事が起こりました。この時はもう自立生活という目標を諦めるしかないのかと思いましたが、結果的にはペースメーカーの作用によって心臓の調子が劇的といっていいほど安定し、自立生活に向けての好材料になったのです。ペースメーカーが正常に動いていれば大丈夫という安定感が、私をさらに積極的な方向に導いていくことになりました。 こうした流れの中で、2000年6月から、本格的に自立生活実現に向けての準備がスタートしたのです。何の基盤もない白紙の状態からのスタートで、当初から相当な道のりの厳しさを予感させました。 退院する上で、一番の壁になったのは、 @日常的医療ケアの確保 A何か起きた時の責任問題 B24時間介助体制の確立 の、3点です。特に@とAについては、主治医や病棟師長はじめ、病院側から厳しい姿勢がしめされました。常時人工呼吸器を使用するような人間が、病院を出て生活しようとすれば、24時間介助者の確保が必要なだけでなく、人工呼吸器の管理や、気管内吸引などの医療ケアが日常的に必要であり、それを誰がやるのかというのが、大きな問題となってきます。私のように、家族と同居しないかたちの在宅ということになれば、なおさら難しい話になりますが、これをクリアしないことにはどうにもなりません。自立生活を、実現できるかどうかを左右する大切なことだけに、無資格者の介助者に、医療的な研修を行ってほしいと、病院側に強く訴えました。その結果は、やはり無資格者には医療的なことを教えるわけにはいかないという回答でした。 そうした中で、一縷の望みは家族には医療的ケアの研修を実施してもらえることでした。母に医療的ケアを覚えてもらって、母が介助者の中心になるという条件のもとに、病院の了解が得られ、退院に向けての大きな壁を一つクリアすることができたのです。ただ、私の心の中には割り切れないものが残りました。それは成人を過ぎた大人であるのに、なぜ家族の責任のもとでしか生きられないのかということです。無資格者であっても、家族には医療的ケアを教えられるのに、それ以外の介助者には許されないということは、結局親に頼るしかないわけで、これで本当に自立といえるのか、ひとりの大人としての、自己責任とか、自己判断は呼吸器をつけている人間には認められないのかという、やりきれない思いがありました。家族との同居が一般的な現状に置いては仕方のないことかもしれませんが、今後呼吸器をつけていても、家族に頼らず自立したいという人が増えていけば、医療側もそうしたニーズに応えて、変わっていくべきだと思います。そうでなければ、誰のための医療なのかわかりません。医療者や家族のためのものではなく、患者自身のためのものになってほしいと強く願っています。 それはともかく、そのときは母に覚えてもらうしか、退院への道はなく、まず退院を実現することが先決という考えのもとに自分を納得させました。この時期、母には研修のためにたびたび病院に来てもらい、大変な負担をかけてしまいました。自立といいながら、結局は母に無理をさせることになり、自分の進む方向は本当にこれで良いのかと自責の念にかられたものです。 何かあった場合の責任問題に関しては、一般的には同居する家族の責任ということになるのでしょうが、私の場合は家族との同居ではないので、それなら誰が責任を持つのか、誰が最終的な判断をするのかといったことが、大きな問題となりました。私としては自立した大人であり、自身が生活の主体であるという点から、自己責任を主張しましたが、十分な理解が得られるには至りませんでした。最終的には契約書に、何か起きた時の責任は全て本人と家族にあるということを明記することで、何とかクリアできましたが、これに法的な効力があるわけではないので、もし実際に何か起きた場合どのように対応するのかという点では、課題を残しています。 24時間介助を必要とする私が、在宅で生活する上では、24時間の介助者の確保が必要不可欠です。介助者のローテーションが24時間埋まらなければ、病院も責任上、退院を許可できません。当初は各大学や医療系の専門学校などで介助者募集のビラを配っても、ほとんど反応がなく、必要人数を確保できるかどうか、全く先行きが見えない状態でしたが、つっかいぼうのバックアップや人づてによって、日を追うごとに介助者の人数が少しずつ集まり、何とか24時間の介助ローテーションが埋まりました。 一番の難関であった医療ケアの確保と、24時間介助体制の確立を何とかクリアし、粘り強く病院との交渉を重ねた結果、全面的な賛成はえられないまでも、退院のゴーサインが出ました。こうして、2001年11月12日に31年間過ごした、長良病院を退院したのです。 |